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過去の展覧会で使用したテキスト

 

「絵画を見るている時」

私が美術館や画廊で絵画を見ている時、描かれたモチーフや空間や色彩の世界に魅了される時もあれば、それら幻影の世界から一瞬醒めて絵画はカンバスに塗ったただの絵の具の塊であると見える時もある。それらの絵画は多くの場合壁に依存しているため絵画だけで完結することができない。では壁も絵画の一部なのだろうか。そのような広義の意味での「絵画」の概念や様々なイメージと思考の集積を作品にしている。

「HERE AND NOW 展覧会テキストより」

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「仏教的感覚と絵画論」

「すべての絵画の表面にはノイズがある」という活動初期から持つ自身の絵画論をベースに、絵画の成立条件を探る分析的な手法で制作している。
絵の具の成分であるピグメントとメディウムの関係を考察した砂絵のシリーズや、それらを広義の意味において解釈した絵画や彫刻を制作している。
近年では特にメディウムの存在を概念化し、絵画の側から逆にこの現象世界について考察する作品を制作している。

「つなげる絵画」(2020年)展覧会テキストより

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「メディウムという概念の考察」 

 絵画に用いるメディウムとは膠や樹脂、水や油など顔料の接着を助ける透明な媒介物である。
またメディウム≒メディア(媒体)は、本来姿を留めない音や色などの情報にボディを持たせるものであり、例えば霊媒師の体も正にメディウムであると言える。(実際に英語辞書で霊媒師はmediumである。)
さらにはこの現象世界の一切をメディウム(媒介物)という視点から眺めれば、万物は境目がなく繋がっていると感じられる。そのような広義におけるメディウムを作品にしている。

 

 「Paintings」(2020年) 展覧会作家ステートメントより

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Selected critical essay
私のこれまでの展覧会に於いて書いていただいた批評文、コメントなど

 

「生え続ける絵画によせて」

このたびSHINBI GALLERYでは、明石雄の個展「Method;カンバスに生える絵画」を開催します。明石は東京藝術大学大学院の先端芸術表現先攻をを修了し、絵画の成立条件を探る分析的な手法で、新しい表現の可能性を探り続けている気鋭のアーティストです。絵画が成り立つ瞬間において、キャンバスやパネルなどの支持体と常に不可分な関係にあった「絵の具」という存在を、明石は独自のアプローチによって解体しようとします。
まず支持体となるパネルを、面の向きが下になるように天井から紐で吊るす。その逆さまになった面に向かい、グルーガン(熱の力を利用してスティック状の糊を液状にする道具)を使用して、パネルパネルに表面に糊を付着させていきます。この瞬間において、重力という不可避の条件に晒された糊はあちこちに紐のように垂れ下がり、作家のコントロールから完全に逸脱しています。そしてその糊が乾かないうちに、粒の粗い色砂をすくい取り、そこの向けて下から上に放るように投げつけます。このような作業を繰り返すことで、下を向いたパネルの表面に、作家も意図していなかった複雑な構造体が根を生やすように積層されていくのです。
この独特な手法が生まれた背景には、そもそも絵の具というものが、鉱石などを砕いて作られた粉状の「顔料」と、膠やオイルなどのべとべとした「メディウム」を混ぜて成り立っているものであるという、即物的な事実に対する明石の興味がありました。マルセル・デュシャンがかつて、パレット上の絵の具を選んでキャンバスに置くこともレディ・メイドの手法と同じことだと語ったように、明石の関心は絵画に描かれるイメージよりも、それを成り立たせている「既製品」である絵の具自体の方に向かっていったのです。
明石は自身の制作論において、この「絵の具」というものを「顔料」と「メディウム」というふたつの機能に切り分けます。一般的に絵の具の存在価値において一番重要なのは、これは何色である、という事実が視覚的にあらわれていることです。プルシャンブルーの絵の具を買ったのに、それが青い色でなかったら大変なことになります。つまり「絵の具」においては、常に「顔料」のほうに優位性があり、「メディウム」はそれに従属しているといってもよいでしょう。また「メディウム」はその色を均一に発色させるために常に滑らかでなければならず、けして「顔料」より先に物質として前景化してはならないのです。
明石の制作論は、この「絵の具」における「顔料」と「メディウム」の関係を反転させようとします。明石は自身の絵画の中で「顔料」を「色砂」に、「メディウム」を「グルーガンの糊」にそれぞれ置き換えることを試みています。前述したような迂遠なアプローチにより、常にあとから遅れて振りかけられる色砂は、みずからの粒子自体のつぶつぶきらきらとした物質性(=ノイズ)を絵画の表面上であらわにするのです。それゆえに「グルーガンの糊」は「色砂」より常に先立ってみずからの形態を獲得します。それは可視化されえなかったもの、つねに色彩の背後にあったものが常に絵画の一番手前に前景化してくるということでもあります。そのメディウム自体の主体性に名前をつけるため、明石は本展において「生える」という一見奇妙な動詞を使用したのではないでしょうか。
 絵画自体によって絵画の構造を問い直すという自己言及的なアプローチを取っているにもかかわらず、厳密なルールに従えば従うほど、作品はどんどん表面から大きくうねるように盛り上がり、平穏な「平面」としての絵画からは離れていく。そんな周回遅れの矛盾を引き受けながら、あくまでも最終的に「壁」の上でその自律性がたちあがる瞬間を待ち続けるという、その両義性が明石の絵画の魅力といえるでしょう。

 

百瀬文  ( SHINBI GALLERY 担当者、アーティスト )

「method;カンバスに生える絵画」(2019年) 展覧会ハンドアウトより